東京JAZZ2004 東京ビッグサイト
9.18sat 9.19sun1st Stage 13:30〜 / 2nd Stage 19:00〜
アーティスト紹介
ハービー・ハンコック HERBIE HANCOCK
写真1940年4月12日シカゴ生まれ。ピアノ・レッスンを始めたのは7歳の時。11歳の時、シカゴ交響楽団と共に、初ステージに立つ。グルネル大学卒業の1960年、コールマン・ホーキンスらと共演することによりプロとしてのジャズ・ピアニストのキャリアが始まる。

1962年に初リーダー作『テイキン・オフ』をブルーノートからリリース。収録曲の「ウォーターメロン・マン」が大ヒット。マイルス・デイヴィス・クインテットには1963年から1968年まで在籍し、数々の名演を残す一方、1965年には傑作『処女航海』を発表。1972年にLAに移り住んだあと1973年オークランド・ファンク・サーキットのポール・ジャクソンらと革新的なグループ、ヘッド・ハンターズを結成。同年発表したブラック・ファンク・アルバム『ヘッド・ハンターズ』が爆発的にヒット。1970年代後半はウェイン・ショーター、トニー・ウイリアムス、フレディ・ハバードらとVSOPを結成し世界中をツアーし、絶賛される。1983年にはマテリアルのビル・ラズウェルがプロデュースしたヒップ・ホップ・アルバム『フューチャー・ショック』のシングル・カット「ロック・イット」が世界中で大ブレイク。自身初のグラミー「ベストR&Bインストゥルメンタルパフォーマンス」賞を獲得する。ついで1985年には映画『ラウンド・ミッド・ナイト』の音楽監督としてアカデミー賞を受賞。

1990年に入り、1994年にサイバー・ファンク・アルバム『ディス・イズ・ダ・ドラム』を発表。1995年には、『ザ・ニュー・スタンダード』を発表し、新時代のスタンダードを提示する。1998年にはジョージ・ガーシュインをテーマにした『ガーシュイン・ワールド』を発表し、そのアルバムはグラミー賞を受賞する。

2001年に発表した『フューチャー2フューチャー』では再びビル・ラズウェルをプロデューサーに、カール・クレイグをはじめクラブミュージックシーンの注目株と共演。2002年マイルス・デイビスとジョン・コルトレーンの誕生75周年をトリビュートしたライブアルバム『ディレクション・イン・ミュージック』を発表し、グラミー賞をノミネート及び日本ジャズディスク大賞を受賞する。

デビューから40年以上たった現在でも、常に時代の最先端を行く音楽を創造し続けている非凡なピアニスト、アレンジャー、プロデューサーとして世界中のさまざまなアーティストからリスぺクトされている。

2002年より東京JAZZの音楽プロデューサーとして、3年目の現在も世界のジャズシーンをけん引し、新たな歴史を刻み続けている。

ホームページ: http://www.herbiehancock.com/
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ウェイン・ショーター WAYNE SHORTER
写真『Introducing Wayne Shorter』でデビューと同時にアート・ブレーキー&ジャズ・メッセンジャーズに在籍し、音楽監督兼テナー・サックス奏者として活動。

1964年以降は6年間にわたり、ハービー・ハンコック、トニー・ウイリアムス、ロン・カーターらとともに、マイルス・デイヴィスのグループに在籍、ジャズ・シーンをリードするサックス奏者として、ジャズ史に残る多くの功績を残している。またその間にもソロ作として11枚のアルバムを発表している。

1970年になると、マイルスのコンボで共に活動していたジョー・ザヴィヌルとウエザー・リポートを結成、アヴァンギャルドなフューチャージャズの世界を構築。1970年代の音楽シーンを通して最も人気の高いグループの1つに成長。並行してソロ活動も行い、3枚のソロアルバムを発表し、当時のジャズシーンだけではなく、後のクラブミュージックにも多大な影響を及ぼす。

これまでに、ウェザーリポート名義なども含め、8つのグラミーを獲得。

2003年 グラミー賞 Best Jazz Instrumental Album 受賞
Best Instrumental Composition 受賞
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デイヴ・ホランド DAVE HOLLAND
写真1946年10月1日、イギリス・ウルヴァーハンプトンに生まれる。幼少から音楽に魅せられ、4歳でウクレレを始めて以来、10歳でギター、13歳でベースへと移行する。1963年、17歳でロンドンに移り、デイヴの徹底した音楽体験が始まる。

1968年7月、演奏を聴いていたマイルス・デイヴィスの目に止まり、彼のバンドに誘われ、以来2年間マイルスのツアーや『In A Silent Way』や『Bitches Brew』などのアルバムに参加。

1975年、ジョン・アバークロンビーやマイルス・デイヴィス・バンド時代の仲間、ジャック・ディジョネットと共にゲートウェイを形成。ゲートウェイのツアーやレコーディングなどの活動は、現在も続いている。また、1977年には、ベース・ソロのアルバム『Emerald Tears』のレコーディングを行い、ソロ・コンサートを開くようになる。

1980年代に入ると、チェロ演奏のソロアルバム『Life Cycle』を発表。また、ケニー・ホイーラー、ジュリアン・プリースター、スティーブ・コールマン、スティーブ・エリントンからなるクインテットを結成。後に、“Smitty”ことマーヴィン・スミスやロビン・ユーバンクスが加わり、3枚の画期的なアルバム、『Jumpin' In』、『Seeds of Time』、『The Razor's Edge』を残し、1987年まで大々的なツアーを実施した。

また、1980年代を通して指導活動も行う。1983年には、カナダはバンフにあるバンフ・スクールのジャズ・ワークショップ夏季コースの芸術監督に任命され、1990年まで続ける。また、1987から1990年の間、マサチューセッツ州はボストンにあるニューイングランド・コンサーバトリー・オブ・ミュージックの常任教員を務める。

1992年になると、ハービー・ハンコック・トリオのレギュラーメンバーとして登場するようになり、また、ジョー・ヘンダーソンのグラミー賞受賞アルバム『So Near, So Far』にも参加する。1996年には、ハービー・ハンコック率いるカルテットと共にワールド・ツアーを行い、他にもゲートウェイや自ら率いるバンドのツアーを行う。スタジオでの活動も盛んで、3枚のグラミー賞ノミネートアルバムで演奏する。

現在デイヴ・ホランドが率いるクインテットは、グラミー賞にノミネートされて、多くの批評家などからの称賛も得ている。また、2000年には、バークレー音楽学校から名誉博士号を付与されている。

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ブライアン・ブレイド BRIAN BLADE
写真ルイジアナ生まれ、シュリーブポートで育ち、その後ニューオーリンズへ。この土地の精神が深く根付いた音楽的伝統とドラミングスタイルを取り入れ、彼独特の力強いスイングとビートを創り上げる。そして、エリス・マリサリス、ニューオーリンズ・ディキシー・ドラミングの巨匠・ジョニー・ヴィダコヴィッチやハーリン・ライリーなどが見守る中で成長し、スタイルを確立させている。

また、ジョシュア・レッドマンやケニー・ギャレットなどと共演したコンサートツアーやアルバムに始まり、ボブ・ディラン(『Time Out Of Mind』)、エミルー・ハリス(『Wrecking Ball』)、ダニエル・ラノイス(『Sling Blade』)や、かのジョニ・ミッチェルなどとの最新のレコーディングに至るまで、その音楽的直感や、音色の調子を厚くも薄くも奏でられるという驚くべき天賦の才を堂々と見せつけている。

ブライアン・ブレイドは、ブルーノートから『ブライアン・ブレイド・フェローシップ』でデビュー、極めて高い評価を得て以来、進化し続けている。彼率いるグループ、フェローシップには、ピアノにジョン・カウハード、ベースにワーリッツァー、トーマス・クリストファー、テナー兼ソプラノサックス奏者にメルヴィン・バトラー、アルトサックスにマイロン・ウォルデン、ギターにジェフ・パーカー、そしてペダル・スチールギターにデイヴ・イーズレーと、リーダーと同格の面子が揃う。グループ名がそのままタイトルとなったこのアルバム、プロデューサーはダニエル・ラノイス(マンドギターとフェンダーマスタング・ギターの演奏でアルバムにゲスト参加を果たしている)、レコーディングとミキシングは、マーク・ハワードが担当し、カリフォルニアのオクスナードにある“ザ・テアトロ”にて制作された。

ブライアン・ブレイドの生み出す音楽には、国境はない。精神性、感性、誠実さ、忠実さなど、これらすべての特徴が、ブライアン・ブレイド・フェローシップの趣旨を供給している。

『僕は、音楽が一つの共同体(フェローシップ)であって欲しい。世界もそうであれば良いと願っている。音楽にそういった一体感が欲しい。僕は、共同体という概念のもとで育ち、その良き記憶を広げて行きたい』
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ダイアン・リーウ゛ス DIANNE REEVES
写真1956年10月23日にミシガン州のデトロイトで生まれる。初めはトランペットのクラーク・テリーに才能を見出され、彼のバンドにフィーチャーされて歌った。その後ロサンジェルスに移り、1980年からフィル・ムーアの下で学ぶ。1979年から1981年まではビリー・チャイルズのフリー・フライトのバンドで歌った。1981年にはセルジオ・メンデスのグループで歌い、ブラジル音楽にも興味が高まる。1983年から1986年にかけてハリー・ベラフォンテとともに活動、この時ハリーから西アフリカやカリブ海、西インド諸島のさまざまな音楽を紹介され、アフリカの音楽にも興味を持つ。

1980年代末からはソロ・シンガーとなり、ポップ、ジャズ、ブラジル音楽を歌い、スキャット・シンギングも得意とするようになった。ニューヨーク在住中の1986年にロサンジェルスで行われたジャズ・ビジョンズ・コンサートに出演し、デューク・エリントンのナンバーを何曲か歌ったが、たまたまこのコンサートを聴いていたブルーノートのブルース・ランドバルに気に入られて契約。ファースト・アルバム『ダイアン・リーヴス』ではシングルカットされた「ベター・デイズ」がヒット。また1987年8月に来日してマウント・フジ・ジャズ・フェスティバルに出演した時は「フリーダム」を歌って満員の聴衆を魅了した。

近年では2001年『イン・ザ・モーメント ―ライヴ・イン・コンサート―』、2002年『サラ・ヴォーンに捧ぐ』でグラミー賞を受賞、ジャズ・ヴォーカルの女王の地位を確固たるものとしている。

ホームページ: http://www.diannereeves.com/
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TOTO TOTO
写真

1976年、高校時代のバンド仲間だったジェフ・ポーカロとデヴィッド・ペイチは、新しいバンドを結成。当時二人はすでに一流のスタジオミュージシャンとして知られ、ボズ・スキャッグスのバックバンドのメンバーとして活躍していた。メンバーに加わったのは、スティーヴ・ルカサーとジェフの弟スティーヴ・ポーカロ、ボーカルのボビー・キンボール、そしてベースのデヴィッド・ハンゲイト。ジェフはテレビで「オズの魔法使い」を見て、「TOTO」というバンド名を提案した。映画に出てくる犬の名前にちなんでということではなく、言いやすくて覚えやすい名前だと思ったからだ。偶然だが、ラテン語の「toto」には「すべてを含む」という意味がある。あらゆるスタイルの音楽を演奏したいと考えたこのバンドに、まさにふさわしい名前だった。

1977年9月、初のオリジナルアルバムがリリースされ、デビューシングル「ホールド・ザ・ライン」は瞬く間にヒットチャートを駆け上がる。このアルバムが1978年にグラミー賞の最優秀新人アーティスト賞にノミネートされる。

1982年はTOTOの活動において最も重要な年となった。『TOTO ・〜聖なる剣』はプラチナアルバムとなり、このアルバムからのシングル曲、特に「アフリカ」と「ロザーナ」は不朽の名曲としてTOTOの名を世界中に知らしめた。「TOTO ・」ツアーを前にデヴィッド・ハンゲイトがメンバーから抜け、代わって3人目のポーカロ兄弟、マイクがバンドに加わった。

1983年には、グラミー賞で、最優秀アルバム(『TOTO ・〜聖なる剣』)、最優秀レコード(「ロザーナ」)、最優秀プロデューサー(TOTO)、最優秀インストゥルメンタル・アレンジメント(ボーカル)(「ロザーナ」)、最優秀ボーカル・アレンジメント(「ロザーナ」)、最優秀録音(『TOTO ・〜聖なる剣』)の6賞を総なめにする。

1985年には、チャリティーアルバム『USA・フォー・アフリカ』に参加。再びリードボーカリストの交代があり、1986年に、ジョゼフ・ウィリアムズを新しくボーカリストに迎えて、6枚目のアルバム『ファーレンハイト』を発表した。この年ルカサーは、ジェフ・ベック、サンタナと共に日本公演を行い、そこでサイモン・フィリップスと初めて出会う。TOTOは、87年春まで続く大規模な世界ツアーを実施した。

1987年、スティーヴ・ポーカロは他のプロジェクトに着手するために正式にバンドを脱退するが、タイトルそのままの7枚目のアルバム『ザ・セブンス・ワン〜第7の剣』では、引きつづきレコーディングに参加する。このアルバムをリリースした1988年には再び世界ツアーを行い、ツアー終了後にジョゼフ・ウィリアムズが脱退した。

1990年、TOTOはヒット曲のコンピレーションアルバム『Past To Present 1977-1990/グレイテスト・ヒッツ』の制作のために、活動を再開。

1992年8月5日、新しいアルバム『キングダム・オヴ・デザイア〜欲望の王国』のリリース直前に、ジェフ・ポーカロが急逝する。
新しいアルバムの発売。ドラマーとしてジェフの代わりを務めるという重責は、サイモン・フィリップスが担うことになった。「キングダム・オヴ・デザイア」ツアーは、バンドにとってもファンにとっても特別なものになった。この時点では、これがTOTOの最後のツアーになるのかどうか、誰にも分からなかったからである。フィリップスは見事にバンドに溶けこみ、やがてTOTOの正式メンバーになってほしいとの依頼を受けることになる。

1995年、TOTOはサイモン・フィリップスをドラマーに迎えての初めてのアルバムを制作する。秋にそのアルバム『タンブ』をリリース。最初のシングル「アイ・ウィル・リメンバー」は、ヨーロッパ数カ国と日本でゴールドディスクになった。96年TOTOは春から夏いっぱいをかけて、ヨーロッパ、日本、南米と、世界をツアーでまわり、さらにヨーロッパに戻って、イギリスでは単独公演の他にティナ・ターナーのオープニングアクトを務めた。アメリカに戻った後、TOTOは一時活動を休止。メンバーはそれぞれのソロプロジェクトに専念する。

97年後半、ルカサーとデヴィッド・ペイチはまもなく迎える20周年を記念するアルバム『TOTO XX』の題材を探して、古いテープを片っ端から聴きはじめる。サイモン・フィリップスは9月にアルバム『アナザー・ライフタイム』を発表し、10月に日本で短期間のツアーを行った後、再びTOTOに合流。11月に行われたTOTOの初の南アフリカツアーでは、スタジアム級の会場で公演を行い、ヨハネスブルクでは「アフリカ」の演奏に南アフリカのコーラス団とドラム奏者たちが加わった。

1998年1〜2月、メンバーは『TOTO XX』の仕上げの作業を行った。
『TOTO XX』は5月にリリースされ、ヨーロッパと日本でヒットチャートを駆け上がる。アルバムの発売を記念して、TOTOは元メンバーであるボビー・キンボール、ジョゼフ・ウィリアムズ、スティーヴ・ポーカロを加えてヨーロッパでマスコミ向けのスペシャルパーティーを開き、リリース当時のボーカリストによる往年の数々のヒット曲を演奏したほか、何年も演奏していなかった過去のナンバーを披露した。帰国後は、すぐに全員で次のオリジナルアルバムの制作を開始する。このアルバムにも元メンバーたちを参加させ、ボビー・キンボールは続く世界ツアーにも同行した。

1999年3月の『マインドフィールズ』のリリースに合わせ、TOTOは2月下旬に大規模な世界ツアーを開始。2ヶ月以上にわたるヨーロッパ公演で大成功を収めた後、4月の日本ツアーではチケットが完売した。続いて5月から夏にかけて、6年ぶりの全米ツアーを行う。10月、待望のライブアルバム『ライヴフィールズ』がリリース。

TOTOの2000年代は、グ『マインドフィールズ』がグラミー賞、最優秀録音(ノン・クラシック)賞にノミネートされたことから始まる。
TOTOは中米での短いツアーに続きアメリカでも数回公演を行い、その後6月から8月にかけてヨーロッパで数々のフェスティバルに出演(今回はデヴィッド・ペイチに代わってジェフ・バブコが参加)。
ほぼ2年をツアーに費やした後、TOTOとしての活動は一旦休止され、メンバーはそれぞれ他のプロジェクトに取りかかる。サイモン・フィリップスは、秋にイギリスで短期間のクリニックツアーを実施。ルカサーは、カールトンとのライブアルバムのミキシング。デヴィッド・ペイチはボズ・スキャッグスの新しいアルバムで作曲とプロデュースを担当しながら、TOTOのアルバム・ボックスセット制作に向けた長期プロジェクトの仕事も続けた。
サイモン・フィリップスとジェフ・バブコは、2001年1月から『ヴァンテージ・ポイント』を携えたツアーをスタート。また、スティーヴ・ルカサーとメルヴィン・デイヴィスを加えて、70年代のフージョンを演奏する「ダブズ・オブ・ファイアー」という新バンドを結成した。3月下旬、ルカサーはラリー・カールトンと、ライブアルバム『ノー・サブスティテューションズ』のリリースを受けてのアジアツアーを開始。二人はさらに5〜6月に全米ツアー、メモリアルデー(5月の最終月曜日)の連休にラスベガスで行われた2回のTOTOの公演をはさんで、7月にはヨーロッパツアーを行った。TOTOは8月から9月にもアメリカ国内数箇所をまわり、10月にはメキシコでエリック・クラプトンのオープニングアクトを務めた。そして11月に、新たなアルバムの制作を開始する。
翌2002年の初め、ルカサーとカールトンの『ノー・サブスティテューションズ(ライヴ・イン大阪)』がグラミー賞最優秀ポップ・インストルメンタル・アルバム賞を受賞。ルカサーとフィリップスが2月に新バンド「ダブズ・オブ・ファイアー」の日本ツアーから戻ってくると、TOTOの新しいアルバム『スルー・ザ・ルッキング・グラス』の最終仕上げの作業が始まった。
6月、スティーヴ・ルカサーは、多くのスペシャル・ゲスト・ミュージシャンを迎えたクリスマスアルバム『サンタメンタル』を制作。TOTOは7月にヨーロッパでの短いフェスティバルツアーを終えた後、EMIレコーデッド・ミュージック社の一部門であるCMCと新たな世界レベルのレコーディング契約を結び、10月14日に同レーベルから『スルー・ザ・ルッキング・グラス』をリリースする。ボブ・マーリーが書いた最初のシングル曲「クッド・ユー・ビー・ラヴド」は、9月から各ラジオ局でオンエアが始まった。発売後、アルバムはヨーロッパのヒットチャートを急上昇。10月後半から、TOTOはヨーロッパを皮切りに、極東地域での多くの公演を含む12月末までの25周年世界ツアーを行った。

2003年1月、TOTOはヨーロッパでの世界ツアーを続ける。このときのアムステルダム公演はライブDVDに収録され、同年後半にリリースされた。ルカサーとフィリップスは、デレク・シェリニアンの最新アルバムに前作に続いて参加。2月に第2次ヨーロッパ公演を終えた後、フィリップスはライブDVDのミキシングに着手し、4月のTOTOの全米ツアー終了後に完成させた。6月と7月に、TOTOは世界ツアーの第3次ヨーロッパ公演を行う。さらにタヒチとニューカレドニアを訪れた後、10月から12月末まで「ナイト・オブ・ザ・プロムス」コンサートに再び参加した。

2004年前半もTOTOはツアーを続け、東南アジア、南米、メキシコをまわった後、5月にアメリカに戻る。ハワイでは、ホノルル・シンフォニー・オーケストラとの共演で2度の公演を行った。

ホームページ: http://www.toto99.com/
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セロニアス・モンク・インスティトゥート・オブ・ジャズ・アンサンブル
写真セロニアス・モンク・インスティトゥート・オブ・ジャズ・アンサンブルは、南カリフォルニア大学のセロニアス・モンク・インスティトゥート・オブ・ジャズ・パフォーマンスに在学する6人の才能あるミュージシャンにより結成された。この学校では、ジャズを学ぼうと世界中から集まる若いミュージシャンの中で最も優秀な者を対象に、2年間の奨学金が全額給付される。入学選抜は、理事を務めるハービー・ハンコック、アーティスティック・ディレクターのテレンス・ブランチャード、元アーティスティック・ディレクターのロン・カーターによりなされ、入学が認められた学生には、クラーク・テリー、デーブ・ホランド、ケニー・バロン、ジョン・スコフィールド など著名なアーティストと共に学ぶ機会が提供される。

また同校は、ロサンゼルスの高校で実施されている教育プログラムの一貫として、高校生に対する音楽普及活動も行なっているほか、在校生に対し世界中のフェスティバルや文化イベントで演奏する機会を与えている。
ドラムのジェームズ・「マイキー」・アルサンダースは1978年ニューオーリンズ生まれ。8才でトランペットを始め、16才でドラムを始める。NOCCA(ニューオーリンズ・センター・フォー・ザ・クリエイティブ・アーツ)卒業後、バークリー音楽院で学ぶ。これまでに共演したアーティストは、テレンス・ブランチャード、ドナルド・ハリソン、エリス・マーサリス、デルフィーヨ・マーサリス、ニコラス・ペイトンなど。アトランタ・シンフォニー・オーケストラやユタ・シンフォニーなどのアンサンブルでの経験もある。

ベースのアラン・ハンプトンは1981年テキサス州のヒューストン生まれ。ヒューストン・スクール・オブ・パフォーミング・アンド・ビジュアル・アーツに在学中の17才のとき、アップライト・ベースを始める。2000年にはニューヨークのニュー・スクール・フォー・ザ・アーツに入学し、ブルー・ノートのレコーディング・アーティスト、ジェーソン・モランなどのアルバムでも演奏している。また、最新のものではエリ・ヤマモトとのレコーディング、スリー・フィールとの共演のほか、オリジナル・コンポジションとして「ベルベット」にも貢献している。最近では、アランのコンポジション、「テキサス・トゥイスト」を、ニューヨークのビレッジ・バンガードでマーク・ターナー・トリオが演奏した。

ピアノのアルパッド・「ズモ」・オラは、1980年ハンガリー生まれ。7才でピアノを始め、ブダペストのフェレンク・アーケル・ジャズ・ハイスクール、レオ・ウィーナー・クラシカル・音楽院で学ぶ。1998年にはラジオ・ジャズ・ピアノ・コンペティションで優勝し、2001年にはドイツのジャズ・アンダー・デュナウ・コンペティションで優勝した。2002年にはベルギー・ジャズ・インターナショナル・ホーリアート・コンペティションで最優秀ヨーロピアン・ソリスト賞および最優秀トリオ賞を受賞。2002年秋にはバークリー音楽院入学の奨学金を受け、ジョアン・ブラッキーンに師事し、ハル・クルックのバンドで演奏を行った。

サックスのギラード・ローネンは、1979年イスラエル生まれ。1997年にテルアビブのテルマ・ヤリン・スクール・オブ・アーツを優等で卒業。これまで、ヤマハ・ヤング・パフォーミング・アーティスト・コンペティション、アメリカ・イスラエル・アート・ファンデーション・アウォードなどのコンペティションで優勝。イスラエルでの学業を終えるとボストンに移り、名誉あるアルマ・アンド・リー・バークの全額給与の奨学金を受け、バークリー音楽院に学ぶ。バークリー在学中の2002年、卓越した業績と音楽院に対する音楽的貢献が認められ、フレデリック・キャメロン・ウィーバー・アウォードを受賞。また、ヘンリー・マンシニ・インスティトゥートではごく一部の優秀な学生しか学ぶことのできないプログラムを受講している。ギラードは、彼のオリジナル・コンポジションを演奏する音楽グループ、ナーナーのリーダーでもある。

ヴィブラフォンのジェームズ・ウエストフォールはテキサス州ヒューストンに生まれ育った。12才でピアノ、15歳でヴィブラフォンを始める。ヒューストン・ハイスクール・オブ・ビジュアル・アンド・パフォーミング・アーツで学び、卒業後はニューオーリンズ大学に入学。スベンソン・コンポジション・アウォードを2001年および2002年に受賞。エリス・マーサリス、シャニア・トゥエイン、ヒューストン・オーケストラと共演している。また、ニューオーリンズ・ジャズ・アンド・ヘリテージ・フェスティバルでも演奏しているほか、主要テレビコマーシャルでも演奏を行っている。

トランペットのドンテイ・ウィンスローは、メアリーランド州バルティモアで生まれ育った。バルティモア・スクール・フォー・ザ・パフォーミング・アーツおよびニューヨークのニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで学び、最終的にはジョンズ・ホプキンス大学のピーボディ音楽院でクラシック音楽の学士号を、欧州クラシック音楽の修士号を取得する。コロンビア・アーツ・フェスティバル、モントルー・ジャズ・フェスティバル、ブレコン・ジャズ・フェスティバル、マーシアック・ジャズ・フェスティバルで演奏している。また、ロイ・ハーグローブ、ウィントン・マーサリス、ミルト・ジャクソン、ザ・ルーツ、クラーク・テリー、スティービー・ワンダーなどのミュージシャンやバルティモア・シンフォニー・オーケストラとも共演している。ドンテイは子供たちの教育にも熱心で、自作の「アイラブスクール」は、2002年のジョン・レノン・ソングライティング・コンテストの子供の音楽部門で最優秀賞を受賞した。
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セサール・ロペス&ハバナ・アンサンブル CÉSAR LÓPEZ AND
HABANA ENSEMBLE
写真キューバの名高いミュージシャンで結成された「ハバナ・アンサンブル」は、1997年初頭の結成当初より、音楽的・芸術的に斬新なアイデアを持つミュージシャンにより構成され、キューバで活動する他のグループとは一線を画す存在となっている。
かのジャズ・アーティスト、チューチョ・バルデスの「イラケレ」でジャズを学んだ年若いメンバーは、そこで自分たちの楽器を徹底的にマスターした後、ラテン・ジャズの世界に足を踏み入れ、妙技と絶賛されるパフォーマンスを行うこととなる。

メンバーそれぞれの潜在力を引き出すことで、ハバナ・アンサンブルはクラシック・ジャズのレパートリーとキューバのポップ・ミュージックの融合を創り出し、演奏のすべてに本物を感じさせるコンテンポラリー・ミュージックを確立する。

ハバナ・アンサンブルは結成初期から、ボレロ、サルサ、インストルメンタル、コンガやスタンダード・ジャズといった、多様なレパートリーと大胆な展開で聴衆を魅了してきた。メンバーひとりひとりのアドリブにも注目できる。バンドを率いるのは、評論家の間で「キューバのチャーリー・パーカー」と称される一流サックス・プレーヤ、シーザー・ロペス(イラケレの元メンバー)。

ハバナ・アンサンブルの最大の功績は、言葉では言い表せないフィーリングを「音楽」という普遍の言語で見事に表現してみせたことだが、それも、このグループがキューバ音楽のこれまでの流れやキューバ音楽がこれまで20年の間どのような貢献を果たしてきたかをきちんと学んでのことだ。このような音楽活動に加え、彼らの独特のサウンドやスタイルは熱烈なファンや評論家の脳裏に強烈に焼きつく。ハバナ・アンサンブルはこれまで、国内外のフェスティバルで活躍し、ベネズエラ、バルバドス、サンマルティン、ペルー、コロンビア、アメリカ、ブラジル、アルゼンチン、メキシコ、フランス、イギリス、南アフリカなどでも評論家から絶賛を受け、幅広い人々から高い人気を得ている。

共演者には、ビクター・マヌエル、ダニー・リベラ、ワシントン・ブリッジズ・バレー、エド・モッタ、イバン・リンズ、スピロ・ギラ、マルコス・ミラー、フミオ・カラチマ、エル・シガラ、チュチョ・バルデス、コンパイ・セグンド、リチャード・エグエスといった名が連なる。

ラテン・ジャズ史で既に大きな存在感を持つキューバの音楽グループ、ハバナ・アンサンブルは、ハイレベルな演奏とオリジナリティー、そして何よりも、音楽に対する美の追求を通じて、類稀なジャズバンドとしての地位を手に入れた。
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リール・ピープル REEL PEOPLE
写真REEL PEOPLEは、良質なUK House Musicをリリースしている事でも知られるロンドンの"Papa Records"のオーナーの "Oli Lazarus" と、Phil Asher率いるレストレス・ソウル・クルーの一員であり、ウエス・ロンドンで数多くのプロダクションにも参加しているマルチ・キーボーディスト “Mike Patto” の2人からなるユニット。

ファースト・アルバム「SECONDO GUESS」はその豪華なゲスト陣が大きな話題を呼んだ。

ヴォーカリストには数多くの著名なダンスミュージック・プロデューサーのプロダクションへの客演で知られる "Vanessa Freeman"、Cooly‘s Hot Boxの “Angela Johnson”、Nathan Hinesのアルバムにもフィーチャーされた“Shelly Nelson”、ドラム・プログラマーにはPhil Asher、Seiji、DJ Spinna といったトップ・プロデューサー陣、そしてNathan Hinesを始めとした数多くのミュージシャン等、現在のシーンの第一線で活躍する才能溢れるアーティストの面々が名を列ねている。

またこのアルバムは、タイトル曲が世界中のクラブでスマッシュヒットを記録したのを始めとし、“Can‘t Stop”、“TheLight”、“Butterflies”等の名曲の数々を生み出し、 2003年のクラブ・ミュージックを代表する最高傑作として高い評価を得ている。
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EQ EQ
写真小池修(sax)、青柳誠(p)、納浩一(b)、大坂昌彦(ds)
004年5月に2ndアルバム『IMPERFECT COMPLETENESS』を発売したEQ(イーキュー)。
「新しいジャズシーンを創造したい」という気持ちを込め、結集したメンバーは、レコーディング参加アルバムなどが2000枚を超える「小池修(こいけ・おさむ)Sax」、関西の大御所バンド"ナニワエキスプレス"でデビューし、最近ではプロデューサーとしても大活躍中の「青柳誠(あおやぎ・まこと)Piano」、バークリー音楽大学在学中にエディ・ゴメス・アウォードを受賞し、渡辺貞夫氏のサポーターとしても有名な「納浩一(おさむ・こういち)Bass」、JAZZ界の各賞を総嘗めにし、デューク・ジョーダン、ダスコ・ゴイコヴィッチ、デルフィーヨ・マルサリスなど海外ミュージシャンからも多大なる信頼を得ている「大坂昌彦(おおさか・まさひこ)Drums」という非常に優秀なミュージシャン達です。バンド名は、"イコライザー(音響装置)"また"Earth Quartet(アース・カルテット)"の略であり、"地球環境に優しい次世代の集団(カルテット)"という意味が込められています。ストレートアヘッドなJAZZであり、オリジナル楽曲にこだわった"アコースティックでハートウォームな音作り"がコンセプトです。また誰か1人がリーダーになるのではなく、4人の音楽感がそれぞれリードになるような、アンサンブルを考えて活動をしています。この4人が音を重ね合わせる事で、素晴らしいサウンドをお届けできる事と信じています。
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上原ひろみ HIROMI UEHARA
写真1979年静岡県浜松市生まれの24歳。6歳よりピアノを始め、同時にヤマハ音楽教室で作曲を学ぶ。国内外の「ユニセフチャリティコンサート」「ジュニアオリジナルコンサート」等に多数出演。17歳の時にチック・コリアと共演し、絶賛された経験を持つ。

1998年よりニューヨークに渡り、ジュニア・マンスに師事。1999年バークリー音楽院に入学後、全米各地のジャズフェスティバルに出演し、高い評価を得る。在学中にジャズの名門テラーク・レーベルと契約し、2003年に全米デビューを果たす。同年5月にバークリー音楽院を首席で卒業。

現在も活動の拠点をボストンに置き、全米、ヨーロッパ各地をツアーでまわっている。また、日本国内においても、TBS系全国ネット「情熱大陸(2003年10月19日オンエアー)」やキリン「モルトスカッシュ」CFへの出演、ブルーノートを中心とした国内初ツアーを成功させるなど、積極的に活動を展開している。

ホームページ: http://www.yamaha-mf.or.jp/art/official/hiromiuehara/

海外メディアの反応

「軽妙なテクニックと激しい(燃え立つような)音楽感性。活気あるベースラインや歯切れのよい不協和のハーモニーで、これらの曲の多くが、ギンザの絶え間ない感覚的激動に振動し波打つようだ」
(ロサンゼルス・タイムズ)

「上原ひろみの『another mind』は、2003年のベストデビューアルバムである」
(ジャズレビュー・コム)

「ヒロミは恐ろしいまでのエネルギーと驚異的なスタミナで演奏している…彼女の推進的『XYZ』が凄い激しさでアルバムを始める。『Double Personality』では、ほとんどハーモロディックで自由な即興と注意深く作曲されたモダン・ジャズの間を行き来する」
(オール・ミュージック・ガイド)

「パティ・スミスの名アルバム『Horses』のように、『another mind』は今まであった決まりごとを新しいエナジーとともに吹き飛ばし、音楽をより進化させるための新しい方向性を示した」
(リズム&ニュース)

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クリヤ マコト MAKOTO KURIYA
写真神戸生まれ。高校卒業と同時にアメリカ留学。ウエスト・バージニア州立大学言語学部卒業。大学在学中から演奏活動を行う。

大学卒業後は、ピッツバーグ大学でジャズ史、インプロビゼーションの講師を務める傍ら、『チャック・マンジョーネ・グループ』のメンバーとして全米各地をツアー。チコ・フリーマン、ジェームス・ムーディ、ネイサン・デイビス、トゥ−ツ・シールマンス、ドナルド・バード、スタンリー・ジョーダン、トム・ブラウンなど一流プレイヤーと共演。

この間、オハイオ・ジャズ・コンペティションでアウトスタンディング・ピアニスト賞、ウエスティングハウス・カルチュラル・アワ−ドなど受賞。ジャズの本場、アメリカで実力を認められる。

1990年に帰国。『日野皓正グループ』で演奏活動を行うほか、自身のCDとして「ザ・ボルチモア・シンジケート」(スイングジャーナル誌評論家投票若手ピアニスト部門1位、作曲家部門、コンボ部門でも上位を記録)、「X-BARトリオ」、ネイサン・デイヴィス、巨匠カーティス・フラーらとのアルバム「Mercy, Mercy, Mercy」などで高い評価を得る。

また、クリヤは驚くべき音楽性の広さで意欲的な取り組みを行っている。若い世代に向けたジャズのメッセージとして「ジャパニーズ・スタンダード・ジャズ」を生みだそうと志向、アニメーション・テーマを本格的ジャズにアレンジしたアルバム「ANTITHESES」シリーズをリリースし話題を呼んだ。さらに、純邦楽やクラシック演奏家、DJなどとジャンルを超えたコラボレーションも行っている。作曲家、サウンド・プロデューサーとしても活躍、平井堅、伊東たけしらに楽曲提供しているほか、テレビ/ラジオ番組主題歌、映画音楽、CMなど多くの作品を手掛けている。

昨年リリースのアルバム「Latin Touch」では、クリヤがこれまで関わってきたジャズ、クラシックなどの芸術的作品と、ポップス、クラブ・ミュージックなどの大衆的作品をバランス良く融合し、コンテンポラリーなインストゥルメンタル・ミュージックを生み出した。

ジャズと他の音楽分野と融合させ、多くの人々が楽しめるサウンドをクリエートしてきた活動が国際的に評価を受け、今年10月1日にパリ・ユネスコ本部で開催されるジャズフェスティバルにアジア代表として出演予定である。

ホームページ: http://members.jcom.home.ne.jp/tothemax/
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フライド・プライド Fried Pride
写真類まれなる歌唱力を持つボーカリストshihoと超絶技巧のギタリスト横田明紀男の2人からなるジャズユニット。
2001年9月、初の日本人アーティストとして名門ジャズ・レーベル‘コンコード’より1stアルバム"FRIED PRIDE"でデビュー。同アルバムはSwing Journal誌「ゴールドディスク賞」を受賞。

2002年7月、2ndアルバム"STREET WALKING WOMAN"を発表。ドラム&カンパニーには"シーラ・E"も参加。収録楽曲"CLOSE TO YOU"がテレビ東京系「そして音楽が始まる」のエンディングテーマ曲として起用される。

2003年6月、3rdアルバム"HEAT WAVE"発売。収録曲"アルフィー"はTBS系「ブロードキャスター」エンディングテーマに起用される。
2004年8月、4thアルバム"That’s My Way"発表!日本からは‘村上ポンタ秀一’、海外ではグラミー賞に携わったアーティスト‘マーカス・ミラー’、‘ギル・ゴールドスタイン’、‘マイク・マイニエリ’らが参加!

また、ライブ活動も積極的に展開。

東京では恵比寿ガーデンホール・渋谷クアトロ・六本木スイートベイジル・南青山CAY・横浜モーションブルー、名古屋では、ボトムライン・ブルーノート・jazz in LOVELY、大阪ではフィニックスホール・ブルーノート・心斎橋クアトロ・福岡ではブルーノート・イムズホール、他全国各会場にて活動中!

ホームページ: http://www.friedpride.com/

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松永貴志 TAKASHI MATSUNAGA
写真1986年1月27日、兵庫県芦屋市出身。5歳の頃より独学でピアノ、オルガンを始め、10歳で、ハモンドB-3を使用したオリジナルCD『SPAIN』を発表。13歳には、ジャズピアノの巨匠・ハンク・ジョーンズに「ずば抜けた演奏」と絶賛され、15歳で「松永貴志プロデビューリサイタル」を実施した。

17歳の5月、デビュー・アルバム『TAKASHI』を発表し、ベストセラーとなる。各種メディアにも多数取り上げられ、6月から7月まで行った初の全国ツアーは大成功を収める。8月、東京JAZZ2003に出演。自己のトリオでの演奏はもちろん、ハービー・ハンコック SUPER UNITでの海外超一流ジャズメンとの共演は喝采を浴びる。10月、東北放送でDJ番組「松永貴志 放課後のJAZZ」が始まる。11月、全曲書き下ろしオリジナルによる2ndアルバム『MOKO-MOKO』を発表。1月、スイングジャーナル誌ジャズ・ディスク大賞「ニュー・スター賞」受賞。

18歳の2月、グラミー賞受賞アーティスト、ボビー・マクファーリンと共演する。「咲くやこの花賞」(大阪市芸術文化賞)受賞。全米、およびヨーロッパ(イギリス、ドイツ他)、アジア各国から『STORM ZONE』(邦題『MOKO-MOKO』)が発売され、ブルーノート・レーベル65年の歴史上、最年少のリーダー録音記録を作った。3月には「出光音楽賞」を受賞。本人出演のNTTドコモ関西のTVCFが始まる。

ホームページ: http://www1.odn.ne.jp/takashi-m/
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森山良子 RYOKO MORIYAMA
写真1948年、東京都生まれ。日本ジャズ界のパイオニア森山久の長女。

1967年「この広い野原いっぱい」でデビュー。その後、ミリオンセラー「禁じられた恋」をはじめとする数々のヒット曲を発売。透明感のある歌声と歌唱力で、名実ともに日本のトップシンガーに。その活動は国内にとどまらず、ニューヨーク・カーネギーホールでのコンサートをはじめ、フランクフルト、ソウル、ロサンゼルスなど海外でもコンサート活動を続ける。

最近では、35周年を迎えて2002年3月に発売したCDアルバム『さとうきび畑』がロングセラーを続けている。同年の第44回日本レコード大賞では「さとうきび畑」で最優秀歌唱賞と金賞受賞、「涙そうそう」で作詞賞を受賞し、3冠を達成した。

また今年5月には、昨年リリースしたジャズアルバム『The Jazz Singer』を引提げ、オリジナルメンバー島健バンドと共に、名門NYブルーノートをはじめとするライブハウスをまわる「Ryoko Moriyama US Jazz Live Tour2004」を行った。NYブルーノートではレコーディングに参加したマイケル・ブレッカーとの共演も実現し、好評を博す。

ホームページ: http://www.ryoko-moriyama.jp/
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