1976年、高校時代のバンド仲間だったジェフ・ポーカロとデヴィッド・ペイチは、新しいバンドを結成。当時二人はすでに一流のスタジオミュージシャンとして知られ、ボズ・スキャッグスのバックバンドのメンバーとして活躍していた。メンバーに加わったのは、スティーヴ・ルカサーとジェフの弟スティーヴ・ポーカロ、ボーカルのボビー・キンボール、そしてベースのデヴィッド・ハンゲイト。ジェフはテレビで「オズの魔法使い」を見て、「TOTO」というバンド名を提案した。映画に出てくる犬の名前にちなんでということではなく、言いやすくて覚えやすい名前だと思ったからだ。偶然だが、ラテン語の「toto」には「すべてを含む」という意味がある。あらゆるスタイルの音楽を演奏したいと考えたこのバンドに、まさにふさわしい名前だった。
1977年9月、初のオリジナルアルバムがリリースされ、デビューシングル「ホールド・ザ・ライン」は瞬く間にヒットチャートを駆け上がる。このアルバムが1978年にグラミー賞の最優秀新人アーティスト賞にノミネートされる。
1982年はTOTOの活動において最も重要な年となった。『TOTO ・〜聖なる剣』はプラチナアルバムとなり、このアルバムからのシングル曲、特に「アフリカ」と「ロザーナ」は不朽の名曲としてTOTOの名を世界中に知らしめた。「TOTO ・」ツアーを前にデヴィッド・ハンゲイトがメンバーから抜け、代わって3人目のポーカロ兄弟、マイクがバンドに加わった。
1983年には、グラミー賞で、最優秀アルバム(『TOTO ・〜聖なる剣』)、最優秀レコード(「ロザーナ」)、最優秀プロデューサー(TOTO)、最優秀インストゥルメンタル・アレンジメント(ボーカル)(「ロザーナ」)、最優秀ボーカル・アレンジメント(「ロザーナ」)、最優秀録音(『TOTO ・〜聖なる剣』)の6賞を総なめにする。
1985年には、チャリティーアルバム『USA・フォー・アフリカ』に参加。再びリードボーカリストの交代があり、1986年に、ジョゼフ・ウィリアムズを新しくボーカリストに迎えて、6枚目のアルバム『ファーレンハイト』を発表した。この年ルカサーは、ジェフ・ベック、サンタナと共に日本公演を行い、そこでサイモン・フィリップスと初めて出会う。TOTOは、87年春まで続く大規模な世界ツアーを実施した。
1987年、スティーヴ・ポーカロは他のプロジェクトに着手するために正式にバンドを脱退するが、タイトルそのままの7枚目のアルバム『ザ・セブンス・ワン〜第7の剣』では、引きつづきレコーディングに参加する。このアルバムをリリースした1988年には再び世界ツアーを行い、ツアー終了後にジョゼフ・ウィリアムズが脱退した。
1990年、TOTOはヒット曲のコンピレーションアルバム『Past To Present 1977-1990/グレイテスト・ヒッツ』の制作のために、活動を再開。
1992年8月5日、新しいアルバム『キングダム・オヴ・デザイア〜欲望の王国』のリリース直前に、ジェフ・ポーカロが急逝する。
新しいアルバムの発売。ドラマーとしてジェフの代わりを務めるという重責は、サイモン・フィリップスが担うことになった。「キングダム・オヴ・デザイア」ツアーは、バンドにとってもファンにとっても特別なものになった。この時点では、これがTOTOの最後のツアーになるのかどうか、誰にも分からなかったからである。フィリップスは見事にバンドに溶けこみ、やがてTOTOの正式メンバーになってほしいとの依頼を受けることになる。
1995年、TOTOはサイモン・フィリップスをドラマーに迎えての初めてのアルバムを制作する。秋にそのアルバム『タンブ』をリリース。最初のシングル「アイ・ウィル・リメンバー」は、ヨーロッパ数カ国と日本でゴールドディスクになった。96年TOTOは春から夏いっぱいをかけて、ヨーロッパ、日本、南米と、世界をツアーでまわり、さらにヨーロッパに戻って、イギリスでは単独公演の他にティナ・ターナーのオープニングアクトを務めた。アメリカに戻った後、TOTOは一時活動を休止。メンバーはそれぞれのソロプロジェクトに専念する。
97年後半、ルカサーとデヴィッド・ペイチはまもなく迎える20周年を記念するアルバム『TOTO XX』の題材を探して、古いテープを片っ端から聴きはじめる。サイモン・フィリップスは9月にアルバム『アナザー・ライフタイム』を発表し、10月に日本で短期間のツアーを行った後、再びTOTOに合流。11月に行われたTOTOの初の南アフリカツアーでは、スタジアム級の会場で公演を行い、ヨハネスブルクでは「アフリカ」の演奏に南アフリカのコーラス団とドラム奏者たちが加わった。
1998年1〜2月、メンバーは『TOTO XX』の仕上げの作業を行った。
『TOTO XX』は5月にリリースされ、ヨーロッパと日本でヒットチャートを駆け上がる。アルバムの発売を記念して、TOTOは元メンバーであるボビー・キンボール、ジョゼフ・ウィリアムズ、スティーヴ・ポーカロを加えてヨーロッパでマスコミ向けのスペシャルパーティーを開き、リリース当時のボーカリストによる往年の数々のヒット曲を演奏したほか、何年も演奏していなかった過去のナンバーを披露した。帰国後は、すぐに全員で次のオリジナルアルバムの制作を開始する。このアルバムにも元メンバーたちを参加させ、ボビー・キンボールは続く世界ツアーにも同行した。
1999年3月の『マインドフィールズ』のリリースに合わせ、TOTOは2月下旬に大規模な世界ツアーを開始。2ヶ月以上にわたるヨーロッパ公演で大成功を収めた後、4月の日本ツアーではチケットが完売した。続いて5月から夏にかけて、6年ぶりの全米ツアーを行う。10月、待望のライブアルバム『ライヴフィールズ』がリリース。
TOTOの2000年代は、グ『マインドフィールズ』がグラミー賞、最優秀録音(ノン・クラシック)賞にノミネートされたことから始まる。
TOTOは中米での短いツアーに続きアメリカでも数回公演を行い、その後6月から8月にかけてヨーロッパで数々のフェスティバルに出演(今回はデヴィッド・ペイチに代わってジェフ・バブコが参加)。
ほぼ2年をツアーに費やした後、TOTOとしての活動は一旦休止され、メンバーはそれぞれ他のプロジェクトに取りかかる。サイモン・フィリップスは、秋にイギリスで短期間のクリニックツアーを実施。ルカサーは、カールトンとのライブアルバムのミキシング。デヴィッド・ペイチはボズ・スキャッグスの新しいアルバムで作曲とプロデュースを担当しながら、TOTOのアルバム・ボックスセット制作に向けた長期プロジェクトの仕事も続けた。
サイモン・フィリップスとジェフ・バブコは、2001年1月から『ヴァンテージ・ポイント』を携えたツアーをスタート。また、スティーヴ・ルカサーとメルヴィン・デイヴィスを加えて、70年代のフージョンを演奏する「ダブズ・オブ・ファイアー」という新バンドを結成した。3月下旬、ルカサーはラリー・カールトンと、ライブアルバム『ノー・サブスティテューションズ』のリリースを受けてのアジアツアーを開始。二人はさらに5〜6月に全米ツアー、メモリアルデー(5月の最終月曜日)の連休にラスベガスで行われた2回のTOTOの公演をはさんで、7月にはヨーロッパツアーを行った。TOTOは8月から9月にもアメリカ国内数箇所をまわり、10月にはメキシコでエリック・クラプトンのオープニングアクトを務めた。そして11月に、新たなアルバムの制作を開始する。
翌2002年の初め、ルカサーとカールトンの『ノー・サブスティテューションズ(ライヴ・イン大阪)』がグラミー賞最優秀ポップ・インストルメンタル・アルバム賞を受賞。ルカサーとフィリップスが2月に新バンド「ダブズ・オブ・ファイアー」の日本ツアーから戻ってくると、TOTOの新しいアルバム『スルー・ザ・ルッキング・グラス』の最終仕上げの作業が始まった。
6月、スティーヴ・ルカサーは、多くのスペシャル・ゲスト・ミュージシャンを迎えたクリスマスアルバム『サンタメンタル』を制作。TOTOは7月にヨーロッパでの短いフェスティバルツアーを終えた後、EMIレコーデッド・ミュージック社の一部門であるCMCと新たな世界レベルのレコーディング契約を結び、10月14日に同レーベルから『スルー・ザ・ルッキング・グラス』をリリースする。ボブ・マーリーが書いた最初のシングル曲「クッド・ユー・ビー・ラヴド」は、9月から各ラジオ局でオンエアが始まった。発売後、アルバムはヨーロッパのヒットチャートを急上昇。10月後半から、TOTOはヨーロッパを皮切りに、極東地域での多くの公演を含む12月末までの25周年世界ツアーを行った。
2003年1月、TOTOはヨーロッパでの世界ツアーを続ける。このときのアムステルダム公演はライブDVDに収録され、同年後半にリリースされた。ルカサーとフィリップスは、デレク・シェリニアンの最新アルバムに前作に続いて参加。2月に第2次ヨーロッパ公演を終えた後、フィリップスはライブDVDのミキシングに着手し、4月のTOTOの全米ツアー終了後に完成させた。6月と7月に、TOTOは世界ツアーの第3次ヨーロッパ公演を行う。さらにタヒチとニューカレドニアを訪れた後、10月から12月末まで「ナイト・オブ・ザ・プロムス」コンサートに再び参加した。
2004年前半もTOTOはツアーを続け、東南アジア、南米、メキシコをまわった後、5月にアメリカに戻る。ハワイでは、ホノルル・シンフォニー・オーケストラとの共演で2度の公演を行った。
ホームページ: http://www.toto99.com/
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