PERFORMING ARTISTS アーティスト紹介

イヴァン・リンス

イヴァン・リンス (vo/kb)

イヴァン・リンスは洗練されたアーティストである。豊かな感性の持ち主で、おそらくカエターノ・ヴェローゾとともに、アントニオ・カルロス・ジョビンの没後以来ブラジルで最もすばらしい作曲家である。イヴァンは非常に要求の多い嗜好もさまざまなアメリカのジャズファンを魅了し、さらに数多くの海外ツアーによって、たぐいまれなメロディメーカーとして知られるようになった。

イヴァンは1945年に生まれた。マサチューセッツ州ケンブリッジで学生時代を過ごし、化学の学位を取得した。音楽は独学ではあるが、伝統的なサンバのリズミカルなスウィングで曲をさらに生き生きとしたものに仕上げている。60年代末頃には非常にロマンティックなテイストの楽曲で最初の成功を収めた。“Madalena”(有名な歌手エリス・レジーナが取り上げた)“O Amor e´ o Meu Pai´s”(ブラジルのヴァリグ航空の機内音楽プログラムで長期間使われた)、“Abre Alas” “Somos Todos Iguais Nesta Noite” “Comecar de Novo” “Novo Tempo”、“Velas” “Dinorah”(ジョージ・ベンソンのベストセラー、“Give Me The Night” に収録されている)があり、ほとんどはすばらしい作詞家ビクター・マルチネスとのコラボレーションによるものである。

複雑な調和と魅力的なリズム感をもつ作曲家イヴァン・リンスは、映画のサウンドトラックでブラジルや海外で名を知られるようになり、ブラジル映画や連続ドラマの作曲をした。

イヴァン・リンスという名前を知らない人もいるかもしれないが、彼は世界中のミュージシャンから高く評価され、愛され、尊敬されている作曲家の一人である。この30年間で彼の多くの楽曲はブラジル音楽の実質的なスタンダードとなり、ケニー・バレル、サラ・ヴォーン、ベティ・カーター、ナンシー・ウィルソン、マーク・マーフィー、ジョージ・ベンソン、ダイアン・シューア、アイアート・モレイラ、テレンス・ブランチャード、マンハッタン・トランスファーなど無数のアーティストが彼の楽曲をカバーして来た。

2000年にトリビュートアルバム“A Love Affair - The Music of Ivan Lins”(Telarcレーベル)がリリースされたが、それにはあるストーリーがあった。1991年、プロデューサーのジェイソン・マイルズはニューヨークでマイルス・デイヴィスからの電話を受け取った。マイルス・デイヴィスはそれ以前にイヴァンの曲が入ったテープを聴いてほれ込んでおり、その曲をすべて含んだアルバムを創作したがっていた。残念ながらそのジャズプレーヤーは3カ月後に亡くなり、アルバムは実現に到らなかったが、その時以来ジェイソン・マイルズはその企画を進めて行った。10年以上経ってからようやく多くの偉大なアーティストやイヴァン・リンスの曲が入ったアルバムが完成したが、イヴァンはマイルス・デイヴィスにテープを送ったのは自分だとのちに明かしている。Questroアルバムはグラミー賞に2回ノミネートされ、2001年にスティングのカバー曲“She Walks This Earth (Soberana Rosa)”でグラミー賞最優秀男性ポップ・ヴォーカルを受賞した。

30年以上のキャリアの中で、イヴァンは25枚のアルバムを制作した。批評家の中には「カエターノ・ヴェローゾがバイーアのボブ・ディランであれば、イヴァン・リンスはブラジルポピュラー音楽のジェイムス・テイラーだ」と言う人もいる。

イヴァンはボサノバとその言葉の調和とリズムにどっぷり浸かりながらも、それ以外のものにも目を向け、一般的な意味でのポップ精神にとりつかれていた。それは彼の曲集を捜し回ったミュージシャンの「ゴールドブック」によって広く示されている。イヴァンは以前は作曲家と見なされていたが、優れた技術を持った演奏家としても認められている。要するに彼はさまざまな本でよく見られる洗練された幅広い作曲家であると言える。

その話は明らかに偶然の出来事の中にちりばめられている。イヴァンはさまざまな理由で、母国の音楽のイメージから“まれ”というより“独特”のスタイルを持っていた。実際、このアーティストの伝記には思いもよらない出来事が出て来るが、文字通りハッピーエンドで終わっており、いろいろな意味でおとぎ話のように思われている。

イヴァンは創造的な60年代に育った。その頃ブラジルはアメリカンポップとUKポップの影響を強く受けていた。彼のヒーローはフランク・シナトラやパット・ブーンであったが、数年前には「始めた頃はブラッド・スウェット・アンド・ティアーズのデビッド・クレイトン・トーマスのファンだったので、彼をまねてハスキーな声で歌っていたんだ」と打ち明けている。それで遊びと好奇心から、その知的な顔立ちのティーンエージャーはピアノを弾き始めた。 イヴァンは自分のグループ、ピラミダウ・カルテットを設立することに決めた。ドラムにアルディル・ブランク、ベースにセザリウス・アルヴィン、フルートにルイス・カッシャッサを擁するグループだった。彼らはインストゥルメンタルナンバーを演奏し、ときどきリオのジョヴェム・シアターでも演奏した。そこでイヴァンはボーカリストのナラ・レオンの目に止まった。ナラ・レオンはイヴァンのことを「作曲していくことこそが彼の運命にある」と理解していた。イヴァンは趣味として演奏し続けることを密かに夜間に楽しんでいた。というのも、昼間は化学者として働いていたからである。イヴァンは“Ate´ o Amanhecer”(“Till Down”)という歌をある大学の学園祭のコンクールに送った。作詞はイヴァン、作曲はヴァルデマール・コレイアで、シロ・モンテイロが歌った。70年代初頭であった。数カ月後、“O Amor E´ o Meu Pai´s”(“The Love is My Country”)が成功を収め、この頃から作詞家Ronaldo Monteiro de Souzaとの付き合いが始まった。グループ結成以来多くの人々に注目され、すでに述べたように“Madalena”はエリス・レジーナが歌ってヒットしたので、彼らはその多才なシンガーソングライターを信頼していた。

またイヴァンは、仲間のアルディル・ブランクやゴンザギンニャと一緒に、ユニバーシティ・アーティスティック・ムーブメントという組織を設立した。このときは彼にとっての黄金時代であった。彼らはインタビューやテレビ出演を増やし、内向的な青年はスターになった。美しいボサノバに始まり、人々がそれぞれの楽しみ方で聴ける魅力的なポップメロディの創作に成功した。それは独創的であるが、初めて聴いても心地よいメロディであった。ところが、イヴァンはしばらくの間活動を休止した。不安を感じていたからである。イヴァンは自分がこの世界に操られていて、もはや自分自身の音楽をコントロールできないと悟ったので、ショービジネスやテレビ出演をやめることにした。

イヴァンは1973年に復帰した。自伝的なタイトルのアルバム“Quem Sou Eu?”(“Who am I?”)は、メディアが彼に与えたイメージを払拭した。1年後、彼の芸術生活で最も重要な出会いがあった。それは作詞家ビクター・マルチネスとの出会いで、彼は晩年の30年間非常に美しいブラジルの歌をイヴァンとともに歌った。その歌は、“Abre Alas” (“Corridors”)、“Somos Todos Iguais Nesta Noite” (“We are all alike tonight”)、“Novo Tempo”, (“New Time”)、“Comecar de Novo” (“Begin again”)、“Dinorah”、“Desesperar Jamais” (“Never despair”)などで、ブラジルポピュラー音楽を代表する曲となり、ジャズや全世界のポップミュージックの作曲家にとって高い水準を示した。イヴァンは独自の創作法を見い出し、声楽家としても成長した。彼の声は個性的で、裏声のバリエーションはミルトン・ナシメントの手本となった。ナシメントは歌に合わせて踊ったり、歌詞をさらに引き立てた。

イヴァンはまた感性豊かな才能をスカウトし、若いブラジルの音楽家の育成のためにレコードレーベルAs Velasを設立した。80年代初頭、Midas Kingを生んだクインシー・ジョーンズはジョージ・ベンソンのポップ志向のアルバムにカリオカ風の趣を添えたかった。

第2の青春が始まった。イヴァンはロサンゼルスに移り、サウンドトラックの作曲家としての輝かしいキャリアが始まった。間もなくブラジルに戻って、シンガーソングライターや編曲家として再スタートした。

イヴァンは帰郷するやいなやすぐに真価を問われた。ノエール・ローザに捧げたアルバム(“Long live Noel” 1、2集‐1997年)とすばらしい“Jobiniando”(2001年)で、偉大なトム・ジョビンの忘れられない名曲をリメイクし、ブラジルの現代音楽シーンの革新者の一人であると改めて認められた。

カリオカとインターナショナル

世界中の多くのたぐいまれな才能のアーティストがカリオカ(リオっ子)のミュージシャン、イヴァン・リンスの曲をカバーし、同時に世界中で発表している。エラ・フィッツジェラルド、クインシー・ジョーンズ、サラ・ヴォーン、チューチョ・ヴァルデス、ベティ・カーター、ナンシー・ウィルソン、ケニー・バレル、トゥーツ・シールマンス、マンハッタン・トランスファー、ザ・クルセイダーズ、ダイアン・シューア、ジョージ・ベンソンなど、例を挙げればきりがないが、彼らはイヴァンの曲を見事にカバーして歌い上げている。先に述べているが、このようなことから“A Love Affair - The Music of Ivan Lins”はグラミー賞を受賞した。このアルバムには今日の音楽界の偉大なスターであるスティング、チャカ・カーン、ダイアン・リーヴス、ヴァネッサ・ウィリアムス、グローヴァー・ワシントン、フレディ・コールらが参加している。イヴァンの作品をカバーした多くの歌手の中には、非常に優れたヴォーカルグループ(テイク6やニューヨーク・ヴォイセス)やアメリカの女性歌手(パット・オースティン、ナンシー・ウィルソン、ダイアン・リーヴス、バーバラ・ストライサンド、ダイアン・シューア、ジュリー・アンドリュース)、ブラジルの歌手(レニー・アンドラーヂ、ドリー・カイミ、ガル・コスタ、アストラッド・ジルベルト)がいる(とりわけエリス・レジーナは、1970年に“Madalena”をゾクゾクするような曲に仕上げて、一人の若いシンガーソングライターを世間に知らしめている)。

驚くべき誤解

イヴァンはジャズを心から愛していた。彼は(明らかだが)単純なメロディの創作で成功しただけではなく、ボサノバが本当に意味するところを理解できる並外れたハーモナイザーであり編曲家でもある。

イヴァンはまた教養ある作曲家でもあるが、彼の感性はあのデューク・エリントン・オーケストラやスタン・ケントン・オーケストラの音楽の中でも育まれたと言ってもよい。ジャズの歌姫たち(エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、ベティ・カーター、カーメン・マクレエ)はイヴァンの曲をカバーした。〈実際にイヴァンは指摘している。「私はジャズ作曲家ではない。彼女たちは私の曲とそのハーモニーを気に入っているだけである。私の曲とガーシュウィンやポーターのすばらしいアメリカの曲には関連性があるため、ジャズとよく混同される」。〉

そしてイヴァンはデイヴ・リーブマン、トゥーツ・シールマンス、ケニー・バロン、テレンス・ブランチャードのような世界的に有名なジャズプレーヤーから最も愛される作曲家の一人となった。

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